学問の部屋です。
ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ、テオドール・アドルノ、エドワード・サイードなどの思想家たちは、玄人裸足のピアニストとして知られ、また本格的な音楽論も残しています。
けれども本書で取り上げられている思想家たちは、あくまで私生活における愉しみとしてピアノを弾いたいわば"素人"といってもよい3人。
その3人とは、ジャン=ポール・サルトル、フリードリヒ・ニーチェ、ロラン・バルト。
(ただ、ニーチェは例外というか、ちょっと過剰であるかもしれません。狂気に陥ってからもつねにピアノを弾き続け、それ以前にはワーグナーに心酔し、彼の「無限旋律」を模倣した曲も多数作っていたほどで、彼にとっては音楽はなくてはならなかったということを付け加えておきます。ニーチェの曲を目にしたワーグナーは、その曲を黙殺しましたが)
ところで、このそれぞれに強烈な個性の持ち主たちは、音楽についても持論を持ち、サルトルやバルトにいたっては現代音楽を評価し発言もしていますが、じつは共通しているのは、ショパンの曲をピアノで演奏するのが好きだったということ(さらに、ニーチェとバルトはシューマンも)。
本書を読んだときちょっと信じられませんでしたが、事実のようです。
面白いのは、三者三様の、馴染み深い音楽趣味とおもての顔との距離の取り方。
私は、音楽は抽象的なぶん、その趣味はその人の本質(古い言い方ですが)を何よりよく表しているとひそかに思っています(「文化資本」とかそういう面倒な話はひとまず抜きにして)。
本書の独創的な点は、表の顔ではなく、いわば内側から光を当て、そうした自身の趣味や好みとの距離の取り方そのものが、三人の思想家の思想を形作っているということを鮮やかに示してみせているところだと思います。
ちなみに著者いわく、サルトルはメロディーに、ニーチェは音色に、バルトはリズムに敏感だったということです。
さて、言語ではなく、音楽という観点(聴点?)から耳を傾けるとき、かれらの思考はいったいどのような相貌を示すことでしょうか?
【ショパンの「ノクターンNo.6 op.15-3 g-moll」を弾くサルトル】
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