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執筆者の写真mayurransan

『音・ことば・人間』武満徹・川田順造(岩波書店)


学問の部屋です。


「音」と「ことば」の話です。あるいは「音楽」と「言語」。


例えば日本語で、「ハナ」という名前を与えて、あの「花」を指すことにほとんど必然性がないことは、とても不思議ではないでしょうか。


同じく、英語で花を"flower"と呼ぶことにも、突き詰めれば何の根拠もありません。


歌が言語の起源ではないか、という説があります(→岡ノ谷一夫)。

まず、音の長短、抑揚、大小を分節することで言語のモトのようなものが生まれます。

繁殖期の同じ種の鳥の求愛の歌にもさまざまなヴァリエーションがあり、その種なりの基準で「うまい」「へた」という何らかの評価もあるようです。


ちなみに歌を歌う動物は、わたしたち人間と、鳥、クジラだけだそうです。意外と世界は静か。誰が始めたのかは知りませんが、二足歩行を始めたばかりのサルが、木の梢で囀る鳥に憧れてマネをした、ということもあったかもしれません。


さて本書では、そのような言語と音楽の重なりと隔たり、さらには文化の違いによる驚くほど異なる認識の相違について、作曲家の武満徹さんと、文化人類学者の川田順造さんが往復書簡をかわします。


それぞれが旅をしながら手紙を送り合います。武満さんはパリやニューヨークから。川田さんは西アフリカから。


色々と興味深いやりとりがありすべて紹介したいのですが、今回はひとつだけ。

それは川田さんが研究対象としていた「モシ族」の「太鼓ことば」について。


モシ族は例えば、「ベンドレ」という太鼓を持ち、首長の系譜語り(しかしわたしたちが考える歴史物語とは時間のとらえかたが違うようです)をするさいに、言語による語りを補強し、また言語の代わりをすることもあります。その役割の境目がよくわからないそうなのです。


ある時、川田さんは、王さまに呼ばれて語りを録音しに行きました。


「首席ベンドレや他の楽師も集ってきて太鼓を叩きはじめ、私も早速録音を開始しましたが、前奏と思われる太鼓があまりに長くつづくので、私は一旦テープをとめ、あとの「語り」の録音にそなえて待つことにしました。ところが、そのまま太鼓の音だけ四十分ほど続いて終わってしまい、楽師たちは汗を拭い、私に挨拶して立ち去ってゆくので、私は狐につままれたような思いをしたことがあります。」(p.136)


読めば読むほど、私は鳥の歌を思い出しました。



ここからはあまり興味がないという方は読み飛ばしてください。


科学の方法というのは大半が欧米のものですから、その手法によって「太鼓ことば」のシステムを分析しようと思っても無理があるということはないでしょうか。


相関関係をどのあたりまで考慮するのかも難しく、例えば、まったく根拠なく書いていますが、たまたま吹いてくる風の種類に敏感な人たちで、その変化によって太鼓と語りの役割が入れ替わる、といったこともあってよいようなものです。


だからそもそも、歌と言語という分け方、捉え方さえ根本的に間違っている、ということさえ考えられます。


言語は煩雑さを避けるためにより単純にシステム化されていなければならないし、言語が使用されるとともおのずとそうなっていくものだという考えじたい思い込みなのかもしれません。


複雑なものを複雑なままにほどよい力で抱えておく、そうした緩やかなシステムのあり方も可能なのではないでしょうか。そんなことを考えました。




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