学問の部屋です。
例えば、美術家の草間彌生さんは、自身の抱える統合失調症による幻覚や幻聴を昇華する過程で、唯一無二の作品を生み出しています。
狂気こそが新たなものを生み出すことができるという考えは、西洋において古代から連綿と続いています。
そして事実、そうでした。彼ら彼女らには、常人には見えないものが見え、聞こえない音が聞こえました。
偉大な作家、画家、音楽家、科学者……躁鬱病や統合失調症などをわずらっていた人を挙げ出せばきりがありません。
ただ、時代によって、"常人たちによる"彼ら彼女らの扱いは違っています。また、いわゆる哲学者たちも狂気を扱いかねていたようで、あれこれと好き放題言っています。
そうした飛び交う言説に翻弄されて、人間の狂気の概念は多かれ少なかれ姿を変えてきました。
本書はその歴史を、古代ギリシアから現代までたどり直した力作です。
著者は、精神病理学(フランスの精神分析家ジャック・ラカンなど)を専門とする精神科医、松本卓也さん。説明も懇切丁寧でわかりやすく、リーダブルです。
ちょっと乱暴にはなりますが、参考のために簡単に要約しておきます。
まず、古代ギリシアの哲人プラトンは、狂人をダイモーン(神)の声を聞く者として詩人と同列に見なしました。一方、その弟子、アリストテレスは創造者の病として、メランコリー(うつ)に価値を置きます(メランコリー=天才説)。
しかし以後、「うつ」は「怠惰」(アセデイア)として価値を落とします。
新プラトン主義にいたってようやく、15、6世紀にフィチーノやデューラーがうつを復権させます。
そして理性の時代。デカルトは、たえず人間の精神を侵食しにくる狂気に「お札」を貼るものとして理性を考え、カント、ヘーゲルにいたっては狂気を完全に排除してしまいます。
理性に傾きすぎるということは、同時にかならず狂気を先鋭化させることになります。
ヘーゲルの同窓だった詩人のヘルダーリンが人類で初めての「統合失調症」者(以前は「分裂病」と呼ばれていました)として歴史に名を残すことになったのはあまりによくできすぎています。ヘーゲルの世界精神がじっさいには不可能であることを、ヘルダーリンが身をもって証明してしまったわけです。
【フリードリヒ・ヘルダーリン Wikipediaより】
統合失調症は近代ならではの病だそうです。
もう「神の声」は聞こえません。けれどもその神の不在、欠如を主題としながら、神の存在をほのめかすという、いささか遠回りなかたちでの狂気の構造(否定神学)がこの頃からきわだってきます。
驚いたのは、ヘルダーリンの存在感が哲学史においてあまりに大きいこと。ハイデガーはその哲学の多くを彼に負っています。さらには彼の哲学の、うえにあげた否定神学的構造は、精神分析医ラカン、ラプランシュ、フーコーらに決定的な影響を与えました。
こうして、統合失調症と創造の結びつきが特権視され、強化されていきます。
それに反旗をひるがえしたのが、ジャック・デリダです。否定神学のブラックホールを措定するのを避けて、狂気と創造のこう着状態を避ける戦略をとります。その参照項として、自身統合失調症であったアントナン・アルトーを担ぎ出します。
一方、ジル・ドゥルーズもまたアルトーを支持しましたが、のちには、むしろ深層にくみしない、自閉症スペクトラム気質のルイス・キャロルに向かいました。ご存知、『不思議の国のアリス』の作者です。
キャロルの特徴は、外部や深層を無視し、ひたすら内在的に、英語という元からある言語をあくまでそのルールの中でハックし、その内部に外国語を作り出したという点です。表面さえあればよいという「健全な狂気」。
この主張の背景として、近代国家によって狂気が社会から隔離され、また精神分析家フロイトにより狂気が家族の問題として押し込められていたことがあります。じじつ、20世紀後半、狂気を悪名高い精神病棟から社会にむけて開く運動が展開されました。
このように、精神疾患も時代によって序列を変え、また新たな疾患が現れ、絶対的なものではないことがわかります。狂気もまた、その大半を人間が創造したものなのですから。
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